ぼくはここにいるよ

最近はどうも音楽に食傷気味なので、というか、どうもグッとくるものがないし、まぁ小粒なものはあるにはあるから全く買ってないとか、聴いてないというようなことはないけど、何かこう、購買意欲をそそるようなデカいブツが出る予定もないので、音楽に対する気持ちと言うか興味と言うか、そんなようなものが少々停滞気味なわけだ。そんなわけで、今年の秋は、珍しく読書の秋を満喫している自分がいる。本を読みたいという衝動はこれまでも何度かあるにはあったけど、自分の中での興味を占める部分の大半が音楽で埋まってたり、まとまった時間がとれなかったり、とか、確かに優先順位を考えると、時間的に致し方ない部分は少なからずあったというのは事実だし、音楽や映画その他を押しのけてまで時間を割くに値しないものだという認識も(その当時の自分の中で)あった。本読むよりも前に、目の前に積まれてる消化し切れてない、このCDの山をどうにかしろよ、と。
それが最近はどうしたことだろうか。休日の読書が楽しみで楽しみでしょうがない。ちびちびと読むのはどうも好きではない性分のようで、平日は特に読みたいという衝動は生まれない。こんなことは久方振りの感覚だ。いったいどういう風の吹き回しだろうか。映画の2時間は割けないのに、それよりも遙かに長い時間を割かなければならない読書はOKって。理由は自分でもよくわからない。先月の反省からレコードを買うのを一時ストップしたり、無闇やたらにコレクターのようにCDを買いあさるのを、なるべく控えるようにしたことで、ちょっと余裕が生まれてきたことなのか。それとも映画から離れすぎてて何を見たらいいかわかんないし、特にレンタルで見たいものもないってことも関係あるのか。もしかしたら、他人が作った映像に飽き飽きしてきたのかもしれない。自分の脳内映像に浸っていたいってのがいちばんの理由かもしれない。これまでは音がいちばん心地よかったのが、今は活字から創造される映像がいちばん心地いいんだろう。
そうそう。脳内映像で思い出した。僕は本の挿絵というのが嫌いだ。本(小説)なんてものは自分の脳内映像を楽しむためのものなのに、何故その途中に誰かの脳内映像を具現化したものを見せられなければならないのだろうか。そんなものを押し付けられて、いい気がするはずがない。興ざめだ。音楽にも同じことが言える。僕はプロモーションビデオなんてものが大嫌いだ。あんなもの、音楽から創造される脳内映像を抑制するためのものでしかない。一度プロモを見てしまったら、その音楽を聴くたびに、その映像しか流れなくなってしまう。誰かが作った、誰かの脳内で流れてた映像を具現化したものが。そんなものを勝手に僕の頭に摺り込ませられるなんてのはごめんだ。
僕は、自分の風景が見たい。自分の中で流れてる風景が。そんなことぐらい、誰にも邪魔されたくない。